巡る世界遺産ノート

姫路城はなぜ世界遺産に?日本で最初の世界文化遺産と、天守のしかけ

登録名
姫路城
Himeji-jo
国
日本
区分
文化遺産
登録年
1993年
登録基準
(i)(iv)
UNESCO の ID
661

動画:YouTube「ずんだもんと巡る世界遺産」で見る

石垣の上に、白い壁と何重もの屋根が積み重なっています。兵庫県姫路市の姫路城は、白漆喰で塗られた城壁の美しさから「白鷺城」とも呼ばれてきました。1993年12月11日、奈良の法隆寺とともに、日本で最初の世界文化遺産として登録された城です。

石垣の上にそびえる大天守を、下から見上げたところ

石垣の下から見上げた大天守。2023年4月に撮影。

世界遺産になった理由

登録名は「姫路城」(Himeji-jo)。日本の文化遺産で、UNESCO の ID は661です。登録されたのは1993年で、そのあと範囲の拡大や名前の変更はなく、危機遺産になったこともありません。登録基準は (i) と (iv) の2つです。

UNESCO の概要では、姫路城は、17世紀初めの日本の城郭建築として、今に残るもののうち最も優れた例とされています。大天守と小天守、それをつなぐ建物からなる天守群を中心に、よく発達した守りのしくみと工夫を備えている、というのが UNESCO の説明です。

登録基準 (i):木で造った建物の傑作

(i) の文は、文化庁の訳で「人間の創造的才能を表す傑作である。」です。姫路城は、この「傑作」に当てはまるとされました。

UNESCO の基準ごとの説明では、姫路城は木造建築の傑作で、守りの役目と、大きな美しさを兼ね備えているとされています。挙げられているのは、白く塗られた漆喰と、建物のかたまりと幾重にも重なる屋根との関係の繊細さです。概要では、その屋根の重なりが、町のほとんどどこからでも見えると書かれています。

大天守の上の階から見下ろした、櫓の瓦屋根と姫路の町

大天守の上の階から見下ろした櫓の屋根。その先に姫路の町と山並みが続きます。

登録基準 (iv):木造の城がいきついた姿

(iv) の文は「歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、或いは景観を代表する顕著な見本である。」です。姫路城が当てはまるのは、このうち「歴史上の重要な段階を物語る建築物」の部分です。

UNESCO は、姫路城を、木で造る日本の城郭建築がいきついた姿だと説明し、その大事な特徴をすべてそのまま残しているとしています。登録の範囲は107ヘクタールあり、その中に82棟の建物があります。国宝は、大天守、西・乾・東の3つの小天守、イ・ロ・ハ・ニの4つの渡櫓をあわせた8棟。残りの74棟も重要文化財です。

城の始まりから今の天守まで

姫路城の始まりは、播磨の赤松氏が姫山に築いたとりでとされています。その後、羽柴秀吉がここに城を築き、1581年には3層の天守ができあがりました。

今の姿をつくったのは池田輝政です。関ヶ原の戦いのあと、1600年(慶長5年)に城主となり、翌1601年から大がかりな修造を始めて、1609年(慶長14年)に完成させました。大天守は、外から見ると屋根が5重。中は地下1階と地上6階の、あわせて7つの階に分かれています。この大天守と3基の小天守を渡櫓でつないだ形を、連立式天守と呼びます。

白い塀と石垣の向こうに見える天守群

天守へ向かう道から見た天守群。白い塀と石垣の先に、大天守と小天守が重なって見えます。

城主は池田氏のあと、本多・松平・榊原・酒井などの諸氏に替わりながら、1868年まで300年近く、藩の中心として使われました。明治になって国が城を引き取ると、西の丸の一部や武家屋敷は軍の建物に替わります(これらは1945年に取り除かれました)。城主の御殿は、UNESCO によれば1882年に火事で失われました。それでも天守は残り、大天守は1951年に、文化財保護法のもとで国宝に指定されています。

天守の中のしかけ

大天守の3階には「武者隠し」と呼ばれる空間があります。四隅に狭間のような穴があいていて、兵をひそませて待ちぶせする場所に見立てられてきました。ところが現地の解説板によると、中は2階に分かれていて、大人では身動きがとれないそうです。

武者隠しの戸と、その横の札

大天守3階の武者隠しの戸。

1階の隅には「石落し」があります。名前からは石を落とす穴を思い浮かべますが、解説板では、天守台の石垣に取り付く敵を見張ったり、ねらって撃ったりするための設備と説明されていました。

天守を支えているのは、柱と梁を組んだ木の骨組みです。城の中には、昭和の大修理で大天守を解体するときに作られた、実物の20分の1の軸組構造模型が展示されています。いちばん大きな重さを受けるのは、中央の2本の大柱。そのうち東大柱は、根元が腐って補修を受けていますが、もとは長さ24.8メートルの樅の一本柱でした。

大天守の柱と梁を組んだ骨組みの模型

大天守の軸組構造模型。柱と梁の組み方がよくわかります。

50年に一度の修理

大天守は、昭和と平成に大きな修理を受けています。

昭和の大修理は1956年から1964年まで。大天守をいったん解体して組み直す工事で、8年の歳月と、のべ25万人がかかわりました。このとき、大天守を支えるコンクリートの地盤が新しく造られ、元の礎石は取り除かれています。UNESCO は、地盤が弱く地震の多い土地で、建物の変形が倒壊につながるのを防ぐためだったと説明し、近代の手入れはこの地盤だけだとしています。1934年から続く修理は、日本で発達した木造建築の保存技術で行われ、新しい材料を使うことは厳しく管理されてきました。

平成の保存修理は、2009年11月から2015年3月まで。今度は解体をせず、瓦の葺き直しと壁の補修、耐震補強が中心でした。外壁や屋根の目地の漆喰を塗り替える工事は、およそ50年に一度の修理と位置づけられています。平成の修理で使われた漆喰は、麻の繊維と石灰、海藻ののりを混ぜたものです。

2026年7月上旬からは、ニの櫓や水の一門などで、屋根と壁の漆喰の塗り替えや瓦の差し替えが進められています。終わるのは2027年7月下旬ごろの予定です(2026年10月の時点)。

現地で見たもの

私が姫路城を訪ねたのは2023年4月です。9時40分ごろ、城の南の大手前通りを歩いて城へ向かいました。門をくぐって道を曲がるたびに、天守の見え方が変わっていきます。

大天守に入ったのは10時10分ごろ。6階まで上り、30分ほどかけて中を回りました。上の階の窓からは、駅のほうへまっすぐ延びる大手前通りが見えました。さっき歩いてきた道です。

大天守の窓から見た、駅のほうへ延びる大手前通り

大天守の窓から南を見たところ。三の丸の広場の先に、大手前通りがまっすぐ延びています。

外に出てからは、石垣の下から大天守を見上げ、11時すぎに西の丸へ。そこから天守群を振り返りました。城の中にいたのは、全部で1時間半ほどです。

西の丸から振り返った天守群

西の丸から見た天守群。

行き方

姫路城へは、JR姫路駅か山陽姫路駅から歩いて20分ほどです。駅と城は大手前通りで結ばれています。神姫バスを使うなら「大手門前」で降り、歩いて5分です。

以下は2026年10月の時点の情報です。開城は9時から17時で、最後に入れるのは16時。休みは12月29日と30日です。入城料は2026年3月1日から改められ、18歳以上の一般が2,500円、姫路市民(18歳以上)が1,000円、18歳未満は無料になりました。料金は、城の維持管理や保存修理、整備などにあてられます。

見学の時間は、天守群だけなら約1時間、西の丸まで含めると1時間30分から2時間が目安です。

動画で見る

出典

閲覧日はいずれも2026年10月6日です。

写真

  • この記事の写真は、すべてアトラが2023年4月に撮影したものです。小さく写り込んだ人の顔はぼかしています。

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