巡る世界遺産ノート

アンコールは、なぜ世界遺産? 密林に消えた都の謎と、柱に残る日本人の文字

登録名
アンコール
Angkor
国
カンボジア
区分
文化遺産
登録年
1992年
登録基準
(i)(ii)(iii)(iv)
UNESCO の ID
668

動画:YouTube「ずんだもんと巡る世界遺産」で見る

カンボジアのアンコールには、9世紀から15世紀にかけてのクメール帝国の都の跡が、森を含めておよそ400平方キロにわたって広がっています。12世紀前半に建てられたアンコール・ワットは、その中でいちばん知られた寺院です。

アンコールは「密林に消えた都」と紹介されることがよくあります。けれども、アンコール・ワットの柱には、17世紀の日本人の墨書が残っています。都は、ほんとうに密林に消えていたのでしょうか。世界遺産になった理由と、残された手がかりをたどります。

夜明けの池に、アンコール・ワットの塔の影が映る

夜明けの池に映るアンコール・ワット(2023年11月)

世界遺産になった理由

登録名は「アンコール」(Angkor)です。1992年12月、アメリカのサンタフェで開かれた第16回世界遺産委員会で、文化遺産として登録されました。カンボジアの世界遺産5件のうち、登録がいちばん早く、カンボジアで最初の世界遺産です。

範囲は、アンコール(35,100ヘクタール)と、北東のバンテアイ・スレイ(2,000ヘクタール)、南東のロリュオス(3,000ヘクタール)の3か所に分かれています。離れた構成資産をまとめて1件とする、シリアル・ノミネーションの遺産です。

登録と同じ1992年には、危機遺産にもなりました。外れたのは2004年です。

登録基準は (i)(ii)(iii)(iv) の4つです。

(i) 9〜14世紀のクメール美術と、その傑作

(i) の文は「人間の創造的才能を表す傑作である。」です。UNESCO によると、アンコールの遺跡群は9世紀から14世紀のクメール美術のすべてを表していて、アンコール・ワット、バイヨン、バンテアイ・スレイなど、疑いのない芸術の傑作を含んでいます。「人間の創造的才能を表す傑作」に当てはまるとされました。

バンテアイ・スレイの祠堂。赤みがかった石の壁に、細かな彫刻が彫られている

バンテアイ・スレイ(2023年11月)

(ii) 東南アジアに広がったクメール美術

(ii) の文は「建築、科学技術、記念碑、都市計画、景観設計の発展に重要な影響を与えた、ある期間にわたる価値観の交流又はある文化圏内での価値観の交流を示すものである。」です。アンコールで育ったクメール美術は、東南アジアの広い地域に深い影響を与え、その地域の独自の発展に大きな役割を果たしました。東南アジアという文化圏の中での影響なので、「ある文化圏内での価値観の交流」の部分に当たります。

(iii) 文明を伝える、れんがと石の寺院

(iii) の文は「現存するか消滅しているかにかかわらず、ある文化的伝統又は文明の存在を伝承する物証として無二の存在(少なくとも希有な存在)である。」です。9世紀から14世紀のクメール帝国は東南アジアの多くを治め、地域の政治と文化の発展に大きな役割を果たしました。その文明でいまに残るのは、れんがと石で造った宗教の建物だけです。「文明の存在を伝承する物証として無二の存在」に当てはまります。

(iv) インドの建築から生まれ、独自に育った建築

(iv) の文は「歴史上の重要な段階を物語る建築物、その集合体、科学技術の集合体、或いは景観を代表する顕著な見本である。」です。クメール建築は、おもにインド亜大陸の建築から生まれ、やがて独自の特徴を育てて、はっきり別のものになりました。その結果、東洋の美術と建築に新しい地平を開いた、と UNESCO は説明しています。「歴史上の重要な段階を物語る建築物」の部分に当たります。

バイヨンの外観。顔の彫られた塔がいくつも並ぶ

アンコール・トムの中心にあるバイヨン(2023年11月)

木の町は消え、石の寺が残った

いまのアンコールで見られるのは、石とれんがの寺院ばかりです。都の王の宮殿や人々の家は、ほとんどが木で造られていました。都には、大小の草ぶきの家が並んでいたといいます。木の建物は朽ちて、いまは残っていません。

15世紀の前半、アユタヤ朝との戦いのあと、1431年ごろに都アンコールは落ち、王都は南のスレイ・サントーやプノンペンへ移りました。

人の減ったアンコール・トムには、木が茂りました。1550年ごろ、王が象狩りで森に入り、木の茂った建物群に行き当たったという記録があります。タ・プロームなどでは、大木の根が建物を壊すこともあります。

タ・プロームの大きな木。石の上に太い根を広げている

タ・プロームの大木の根(2023年11月)

それでも、アンコールが忘れられたわけではありません。アンコール・ワットは、帝国が終わったあと上座仏教の寺になり、その後も使われ続けました。16世紀の半ば(1546〜1576年)には、アンコールの王の子孫がアンコール・トムに戻り、建物を直しています。1546〜1564年には、アンコール・ワットの未完成だった北と東の回廊に、浮き彫りが彫られました。

柱に残る日本人の文字

アンコール・ワットの十字回廊の柱などには、日本人が墨で書いた文字が残っています。全部で14か所あり、十字回廊に13か所、北経蔵に1か所です。年代は、1612年(慶長17年)から1632年(寛永9年)にかけてです。

なかでもよく知られているのが、1632年の正月に森本右近太夫一房が十字回廊の南の回廊の石柱に残した墨書です。そこには、生国は日本で、数千里の海を渡って来たことが書かれています。

そのころは朱印船の貿易で多くの日本人が東南アジアに渡り、カンボジアのプノンペンとピニャールーには日本人町がありました。当時の日本人は、アンコール・ワットを、インドの仏教の聖地である祇園精舎だと考えていたといいます。

水戸の彰考館(徳川ミュージアム)に伝わる『祇園精舎図』は、じつはアンコール・ワットの見取り図です。3代将軍家光の命でカンボジアを訪れた長崎の通詞、島野兼了の図を写したもので、いま残る世界最古のアンコール・ワットの見取り図とされています。

『祇園精舎図』。回廊が何重にも囲む、アンコール・ワットの見取り図

『祇園精舎図』(彰考館。パブリックドメイン)

ヨーロッパの「発見」

1860年1月、フランスの博物学者アンリ・ムオがアンコール・ワットを訪れました。ムオの記録はのちに本になって評価され、アンコールはヨーロッパで広く知られるようになります。ムオは「アンコール遺跡を再発見した人」と呼ばれることもあります。

1866年には写真家ジョン・トムソンがアンコール・ワットを撮り、同じ年にフランスのメコン川調査隊も訪れました。1907年からは、フランス極東学院が遺跡の保存と修復を進めています。

ただ、日本人が訪れていたのは、ムオより200年以上も前の17世紀前半です。都が移ったあとも、近くの村の人々はアンコール・ワットに通い続けていました。いまも遺跡公園の中には多くの村があり、祖先がアンコールの時代にさかのぼる村もあります。人々は稲作などの農業をしています。

消えたのは、木で造った町と、都としての役目でした。「発見」は、ヨーロッパに知られたという意味です。

気球から見た、森の中に点々と続く家々の屋根と田んぼ

気球から見た、遺跡のまわりの村と田んぼ(2023年11月)

危機遺産になり、2004年に外れるまで

1970年代から80年代にかけて、カンボジアでは内戦のため、遺跡の修復はほとんど止まりました。1972年から1989年までは保存の作業が行われず、その間に植物が建物をおおい、浮き彫りなどがはぎ取られて、国際美術市場に流れました。

文化遺産を評価する ICOMOS は、保護の法律、保護機関、境界、緩衝地帯、国際協力の調整の5つの条件が満たされてから登録を完了するよう勧告していました。世界遺産委員会は、カンボジアの特別な状況を考え、作業指針の条件の一部を免除して登録し、保全の急ぎの問題に対応するため、危機遺産にも記載しました。

1993年には東京で、日本とフランスが共同議長となり、30か国と7つの国際機関が参加した政府間会合が開かれ、「東京宣言」が採択されました。同じ年の10月13日には、国際協力を調整する委員会 ICC-Angkor ができています。日本国政府アンコール遺跡救済チーム(JSA)は1994年に結成され、2005年からはアプサラ機構との合同チーム JASA として、バイヨンの修復を続けています。

2004年、中国の蘇州で開かれた第28回世界遺産委員会で、保存状態の改善が認められ、アンコールは危機遺産から外れました。

現地で見たもの

私がアンコールを訪ねたのは、2023年11月です。朝5時前、まだ暗いうちにアンコール・ワットの西の入口に着きました。看板には「Early 12th Century」とあります。池のほとりで待っていると、空が明るくなり、塔の影が水に映りました。

6時半すぎには、近くで気球に乗りました。空から見ると、遺跡のまわりは森と田んぼでした。

10時ごろにアンコール・トムの南大門をくぐり、まん中のバイヨンへ。12世紀の終わりから13世紀のはじめにジャヤヴァルマン7世が建てた寺で、塔には大きな顔が彫られています。正午ごろには、大木の根が石をつかむタ・プロームを歩きました。バイヨンでは、日本国政府が支援する修復事業(2022〜2025年、JASA)の看板も見かけました。

午後はもう一度アンコール・ワットへ戻り、十字回廊を通って、中央の塔が立ついちばん高い段まで上りました。上から見下ろすと、回廊の屋根の向こうに、森がどこまでも続いていました。

アンコール・ワットのいちばん高い段から見下ろした、回廊の屋根と森

アンコール・ワットの上から見た回廊の屋根と森(2023年11月)

次の日は、北東へ25キロほどのバンテアイ・スレイへ行きました。赤みがかった石に、細かな彫刻がびっしりと彫られていました。そのあとプレ・ループに寄り、夕方は900年ごろに寺が建てられたプノン・バケンの丘で、森に沈む夕日をながめました。

行き方

アンコールの遺跡群はシェムリアップ州にあり、シェムリアップの町の北に広がっています。今回は、羽田からシンガポールで乗り継いで、シェムリアップに入りました。

遺跡に入るには、入場券のアンコール・パスが要ります。2026年10月の時点で、次のとおりです。

  • 1日券 37ドル、3日券 62ドル、7日券 72ドル
  • 入場は朝5時から。日の出の時間にも間に合います

動画で見る

この記事の内容は、YouTube の動画でも紹介しています。

アンコール・ワットに日本人の文字!?|密林に消えた都の謎と、世界遺産アンコール(YouTube「ずんだもんと巡る世界遺産」)

出典

写真

  • 撮影者を書いていない写真は、アトラが2023年11月に撮影したものです。小さく写った人の顔はぼかしています
  • 『祇園精舎図』:「Japan angkor.JPG」(彰考館、Wikimedia Commons、パブリックドメイン)

関連の本(PR)

旅のガイドブック

世界遺産検定の公式テキスト

Amazonのアソシエイトとして、当サイトは適格販売により収入を得ています。

※世界遺産検定(主催:NPO法人世界遺産アカデミー)の公式のサイトではありません。